シンプルライフの方法

過剰なモノや情報を排除した世界に自由に心をあそばせ、心の充実を図ることがシンプルライフの目指す地点であるとするならば、古来からの「清貧」もその方法論のひとつでもあったといえる。
人を束縛する余分なモノを排除して心の自由を求めるアプローチであるが、そうなると自己の充実すると余計なものに割く労力がなくなってモノが少なくなるのか、モノや情報の少ない生活を心がけると心が充実を計りやすくなるのか、まるで卵とニワトリのような話になってしまうのだが、どちらのアプローチにしても要はシンプルで快適を求める自分の日常行動に原理原則を持つということに尽きるだろう。
その際に指針となることのひとつが過剰を排することであり、それはすなわち清貧ということにつながっていくのである。
たくさんのモノや食べ物や選択肢は決して幸福を約束するものではない。選択に迷い労力と時間をかけているうちに人生は過ぎていってしまうものだ。

たとえば金であっても、時間と金では迷わず時間をとれということがある。  もちろんこれには条件があって、金が全くなくて目の前に仕事があったらその場合は仕事と金をとらざるを得ないだろう。仕事と生活が均衡していてその上さらによい収入・よい地位のある仕事が提示されたような場合のことだが、たとえば経済的手段としての仕事において、たっぷりの責務と引き換えにちょっぴり処遇が良くなってもそれは生活の手段のために生活そのものを失うことになりかねないかと疑ってかかる必要がある。

毎日の生活においてよく笑う。これは大切だ。確かに疲れてイライラしているときもあって難しいこともある。それでも、生活のための仕事に疲れてイラついているとしたら、いったい何のために生活しているのか、なんのために生きているのかということを問いなおしてみるのは意味がある。仕事は生活のための経済的な手段であって目的ではないとしたら、日常の普段のなんでもない生活で笑い楽しみ幸福を感じることをないがしろにして仕事のためにイラついていることは本末転倒ということになる。明日の仕事のために今日早く休もうとして家族との談笑やなんでもない会話を鬱陶しく思ったとしたら、それは手段の目的化によって、誰かの将来などのために自分の今日の手の内にある幸福を犠牲にしていることに他ならない。